フォスター・ペアレントのページ

フォスター・プランのペアレントになった理由

フォスター・プランのことを知ったのはいつだったかは思い出せないけれど、新聞の広告を見て
ペアレントになろうと思い、フォスター・プラン事務局に申し込んだのは、1993年のことでした。

「なぜペアレントになりたいと思ったの?」と今でもよく聞かれるんですが、「貧しい子供たちを助けてあげたい」なんてやさしい気持ちからではありませんでした。私が自分の子供を持つという夢がなくなって、その代わりとして、実際に養子を育てるなんてことはとてもできないので、子供を育てるのにかかるであろう費用の一部でも世界中のどこかの援助を必要としている子供のために活かされるならいいなって思ったのです。


ジャンのこと

「チャイルドの希望地域――どこでも」「チャイルドの希望性別――どちらでも」という申し込みに対して、1993年9月30日の日付で、FC紹介の手紙が来ました。
名前は JEAN、ギニアの男の子、1985年生まれ(誕生日は書いてない)
この時からジャンとの交流が始まりました。

  ギニアの地図と
  一番初めのジャンの写真
  まだ白黒でした


ギニア・・・テレビに出ているサンコンという人の国だったかな?くらいの知識しかありませんでした。
フォスター・プランのペアレントとは、一人の子供の教育資金を援助するのではなくて、その地域全体の生活をよくするための援助をする人です。そして、その地域に住んでいる子供の一人と文通をするということになっているのです。実は、初めはここのところがよくわかりませんでした。

まあとにかく、もともとあまり筆まめではない私、いったい何通の手紙を出したのだろう?できるだけ文字を少なくするために、新幹線とか桜の絵ハガキを買ってきたことが多かったし、だんだんに年に一度、クリスマス(というよりニューイヤー)カードだけになってしまったような気がします。3年前くらいにデジカメを買ってからは、自分で撮った写真で絵ハガキを作るようになりました。

ジャンからの手紙は、やっぱり年に1〜2回。いつもいつもボランティアの人の聞き書きのようなもので、フランス語の手書きで、手書きの英語訳がついているものでした。
家の仕事は農業で、よく手伝っている、好きなスポーツはサッカー、いつもこればっかりでした。私のほうからもっといろんなことを質問すればよかったのかな?

  ちょっとわかりにくいけれど、
  ジャンが描いた家の絵

ジャンのことで、一番忘れられないのは、1999年の4月に届いた手紙。
「母親が98年11月に亡くなり、父親も99年2月に亡くなった。今どうしていいかわからない」という手紙でした。
びっくりして、すぐに返事を出しました。何て書いたかははっきり覚えていないけれど、
「私はいつもあなたのことを考えているから心配しないで!」こんなことしか書けなかったけれど、気持ちは伝わったと思うのです。

不思議なことに、6月に来た手紙には、「私も両親も元気です」と書いてありました。どういうこと?あの話はウソだったの?
8月に来た手紙には、「これからのこと」が書いてありました。やっぱりホントだったの?

12月の日付のある Annual Prpgress Report には、家族欄に父親と母親が書いてありました。ますます混乱してしまいました。
2000年10月の Annual Prpgress Report には両親の死亡のことが書かれていました。これでやっと納得しました。

その後、ジャンはしばらく学校へ行くこともできなくて悲しんでいたみたい。もちろん、今まで両親がやっていた農業の仕事は自分でやらなければいけない。
私はどうなぐさめてあげたらいいかわからなくて、「勉強はできる時にしておいたほうがいい」なんて書いていたかもしれません。

しばらくして、ジャンは立ち直りました。学校にもまた行くようになりました。
将来は  government worker  になりたいそうです。

  2001年に届いた
  ギニアからの緊急レポート

  シエラレオネの内戦の影響で
  難民やゲリラが多数ギニアに
  入ってきて、フォスタープランも
  一時活動休止になりました

  

2002年12月のある日、プラン事務局から一通の手紙が来ました。なんと「フォスターチャイルドがもうすぐ援助の卒業を迎えます」と書いてあります。えええ???たしかジャンは1985年生まれだから、2003年には18歳になって卒業。

それはわかっていたけれど、誕生日がわからないから勝手に2003年12月まで続くものだと思っていました。そういえばその時に次のチャイルドの希望を書いて送ったような気がします。

そして8月、次のチャイルドの書類が届いて「何でこんなに早く?ジャンのこと、まだ終わってないのに」と思っている間に、ついに来ました。登録終了の報告書!!!

結局、2003年3月に届いた手紙がジャンからの最後の手紙となってしまいました。内容は相変わらず「好きな科目は science,geography 好きなスポーツは football ・・・・」と書いてありました。

なんかちっとも進歩しなかったな・・・と読み流してしまったのですが、あとでよく見ると、今までのような聞き書きではなくて、ジャン自筆の手紙だったのです。気がついたのは、もう何もかも終わってからのことでした。ああ残念!フランス語も英語もこんなに書けるなら、私のほうからもっともっといろんなことを質問して、もっともっと返事を書いてもらえばよかった!

 

  これがジャン自筆の手紙

  左がフランス語、右が英語

こんなことで、私の一人目のフォスターチャイルド ジャン との10年間は終わりました。
二人目のチャイルドは、ホンデュラスのオルビンという男の子(12歳)です。
今後のオルビンとの交流はどうなっていくのでしょう?これからが楽しみです。


いろいろあった2000年

1995年秋に夫が仙台転勤となって、初めの半年は夫が毎週末東京に戻ってくるという生活でしたが、いろいろな理由から、1996年春からは仙台に住んで、私が毎週仙台と東京を往復するという生活になりました。どちらかに落ち着くことなく、行ったり来たりで、結局どちらにも知り合いのできない状況。「いったいいつまで続くの?」とかなりイライラしていました。

そんな時、FPニュースで見つけた「宮城FP会開催」という記事。さっそく世話人の後藤さんにメールを送りました。そして、当日は「とにかく仙台で知り合いがほしくて・・・」と自己紹介したのでした。2000年の6月のことでした。

じつは、この時の宮城FP会に参加していたのは地元の人ばかりではありませんでした。
はるばる(?)八王子からHONDURAS会なるFP会の代表という人が来ていました。HONDURASってどこにあるか?どんな言葉を話しているか等の質問から始まって、あとはよく覚えていないけれど、なんかものすごくインパクトありました。

宮城FP会の人たちはみんなおとなしくて、どうもあまり積極的に活動していこうという雰囲気でなく思えたのですが、このオヤジにはなんかすごいパワーを感じました。そして、すぐメールを送り、「今後何か活動がある時は連絡してほしい」って頼みました。

私は、もともとスペイン語専攻だったので、HONDURASがどこにあるかぐらいは知っていました。でも、ペアレントとしてスペイン語で手紙を書くことができるってことは、この時まで気づかなかったのです。

このオヤジ HONDURAS会代表の高木薫氏からすぐに連絡がありました。「7月に中目黒のほうでラテン系のフィエスタ(パーティー)があるから行きませんか?」というお誘い。おもしろそうだったので「ぜひ行きます」と即答。
この中目黒のグループが「ラテンアメリカ文化を知る会」(ACLA)。
フォスタープランとは直接は関係ないけれど、この後もクリスマスパーティーに参加したり遠足に行ったり・・・とすっかりなじんでしまいました。
今ではACLAのメーリングリストの管理人をやっています。

2000年の秋、またまた高木氏からお誘い。今度は、「サンディというインドネシアの元チャイルドで現職員が講演会をするので手伝ってほしい。」というもの。なんのことかよくわからなかったけれどおもしろそうだったので、「何でもお手伝いします」とレスしたら、「東京会場で司会をやってください」なんて言われました。もちろん喜んで引き受けました。

その時に、HONDURAS会会計の乾さん、FP浦和の永瀬さん、東京FP会(当時はHONDURAS会)の
佐藤秀さん、事務局の人たちと知り合いました。事務局に行ったのもこの時が初めてでしたが、なんか「サンディ」のおかげでフォスタープランがものすごく身近な存在になりました。


     HONDURAS会


私のチャイルドはギニアだったけれど、ひょんなことからHONDURAS会と人たちと親しくなり、いつのまにか私も会費を払ってHONDURAS会に入っていました。
HONDURAS会のほうも、時々集まりがあります。はじめは、お知らせをもらって行ける時だけ顔を出していたのですが、いつの間にか世話人の一人に昇格(?)してしまって、高木代表や会計の乾さんといっしょに、次の会をいつどこで開くか?どんな内容にするか?なんてことを話し合うようになっていました。

結局、2001年から2003年の2年間ぐらい、ペアレントとしての活動、またそれ以外の活動も含めて楽しく過ごすことができました。

  2002年5月2日 神戸

  サッカーの日本VSホンデュラス戦が
  開かれたので、応援に行きました

  ホンデュラス人サポーターと
  三宮駅前で記念撮影


ちょうど二人目のチャイルドがHONDURASの男の子になったこともあって、将来を期待されて(?)いたようなのですが、いろいろ考えるところもあって、2004年からは少し距離を置いて活動するようになりました。・・・